真言宗

写真  私が所属する真言宗とは、弘法大師空海によって、平安時代9世紀初頭に開基された日本の仏教の一宗派です。

 所依の経典(基本の重要経典) は、「大日経」、「金剛頂経」、「蘇悉地経」、「瑜祇経」、「要略念誦経」、「理趣経」などです。真言僧侶は、最後に出てきた「理趣経」を日々読誦しています。

 論疏(論文の類)は、「菩提心論」、「釈摩訶衍論」、「大日経疏」などです。

 弘法大師空海の著作は、「秘密曼荼羅十住心論」、「秘蔵宝鑰」、「弁顕密二教論」、「即身成仏義」、「声字実相義」、「吽字義」などです。

 真言密教を実践する方法、つまり修法の作法である「事相」と、真言密教の理論である「教相」の両方を重んじることが重要とされています。私が尊敬する江戸時代後期の名僧 慈雲尊者 は、「事相を離れて教相なく、教相を離れて事相なし、事教一致して、密義をつくすべき」と述べられています。


密教

写真 真言宗は、仏教の中でも、特に密教と呼ばれる分類に属する宗派です。密教が生きた宗教として人々に信仰されているのは、日本とチベット周辺地域だけです。

 日本では、真言宗と天台宗の中にその伝統は受け継がれ、真言宗は拠点とする寺、東寺の名を冠して「東密」と呼ばれ、天台宗は天台密教を略して「台密」と呼ばれています。

 一方、チベット周辺では、チベット自治区、モンゴル自治区、青海省、ネパール、ブータンな、インド領チベット隣接地で信仰されています。ですので、世界で一番著名な僧侶、ダライ・ラマも密教を修めています。

 もともと密教は、インドに於いて大乗仏教の後期に起こりました。密教が大乗仏教の中から、独自の主張を持つようになったのは、6から7世紀の頃のことです。密教は、古代バラモン教やヒンズー教、非アーリア文化をも継承していて、いつ成立したかをはっきりとは示すことができません。

 真言宗の所依の経典である「大日経」「金剛頂経」が成立したのが、ほぼ7世紀とされていますので、その頃には、密教は大成していたといえるでしょう。

密教の特色は、以下の5点になります。

  ◎神秘主義を基調とする
  ◎思想的には総合主義である
  ◎言語表現より象徴表現をとる
  ◎儀礼を通じて思想を語る
  ◎現実を重視する

 これらの5点を事細かく説明したいところではありますが、文字にも制限がありますので、興味のある方は、講演にでも呼んでください。説明いたします。

 今現在の社会は、科学技術を絶対的に信頼し発展だけを望んできた過去から離れ、物質的な豊かさではなく、精神性を求めるようになってきました。

 密教的な思想で考えれば、物質か、精神かと単一的に物事を考えるのではなく、両極を包み込み一元化して捉えるようになります。密教の持つ、複合的な性格、多元的な価値観、宇宙的な視野、感覚的な理解の方法、現実重視の姿勢などは、現代日本においても十分に活かされる思想です。


日々の信仰

写真 真言宗や密教について、小難しく書いてしまいましたが、信仰とはもっと簡単なもので、生活に密着した日々の祈りこそが、真の信仰だと考えています。

 インデックスページの写真で分かるように、私が、日々祈りを捧げているのは、大日如来、十一面観音、不動明王、弘法大師です。

 日々の祈りの中には、難しい教義が存在せず、単純に大いなる存在と自分との対話しかありません。そして、これが、人生を幸福へと導く重要な要素であり、信仰であると考えます。

 また、日々の祈りの中には表されていませんが、釈尊、龍樹、叡尊、慈雲といった諸大徳を尊敬していて、仏菩薩そのものであり、信仰の対象であると考えています。

 上記のお名前は、真言宗の流れの中で羅列していますが、日本仏教の各宗派の宗祖クラスの方々は、やはり同じように尊敬しています。玄奘三蔵や河口慧海にも、特別な想いがあります。

 言うならば、彼らは、仏教界のスターです。

 信仰とは、憧れに近いものがあるでしょう。その憧れに近づこうとすることが、成仏への道のりなのだと思います。

 真言宗内に、他宗派を批判する者や、真言宗の優位性を説く僧侶もいますが、それは、視野が狭く、前述の密教思想と離れるものだと考えます。 

 発心した者(僧侶)が、どのような方法で成仏していくのか、方法論の違いが宗派の違いであるということは、、世界チャンピオンを目指すボクサーが、居並ぶ優秀なトレーナーに対して、どのトレーナーに師事するのかという状況と同じなのだと考えます。
 
 仏教というリングに立てば、トレーナー(宗祖)が何かをしてくれるのではなく、丸裸にされて、自分が戦わな(精進し、研鑽しな)くてはなりません。権威など通用しませんし、同じ宗門同士の仲良しごっこも助けてはくれません。

 日々の信仰は、宗旨宗派の違いを問題とするのではなく、何に想いを巡らし、祈りを捧げるのかということに尽きるでしょう。